四万十川より愛をこめて・・・

     四万十川僻村塾   (四万十太郎)

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四万十川をはじめ日本の河川を管理するために、河川法があることをあなたはご存じでしょう?。しかし、その歴史はあまり知られてない、、、、、と勝手に思いながら書くことにします。
明治29年に誕生したときの河川法の目的は「治水」だけだった。そして、昭和39年には「治水」に加えて「利水」が加わるように改訂された。つまり、当初は洪水から人命財産を守るための法が、東京五輪のころの社会の成長に見合った水の分配有効利用が必要と考えられ、水系の一貫管理制度が導入されて来たのである。

昭和59年頃から四万十川は「日本最後の清流」と呼ばれて有名になったが、その要因は、他の河川が日本の経済成長期に失った「手つかずの自然」が残っていたことにある。それ以来、わが四万十川では、この「環境」に大いに気を使い、河川工事の遂行のみならず隣接道路工事の内容、そして周辺の開発にまで制限を加えているのである。つまり、昭和59年以来、四万十川では「治水」「利水」と共に「環境」は川のための「整備保全条件」であった。

今回、平成9年に河川法がそうなった。四万十川がお手本になった、、、と言うのは、、冗談であるが、、、とにかくそうなった。社会は、「環境」を無視しては通れないほどに、自然回帰への反省と要望に満ちているのである。

これは河川管理者が社会の変化を「先取りしている、、」とまでは言えないとしても、前向きの努力をしているように思える。少なくとも、四万十川にいるとそう思える。

ただ偶然だろうが、いずれの節目も29.39.59.9と全て9がつくのが面白い。

さて、話は江戸時代にまで遡る。この頃の経済の基本表示は「米」でなされた。米と書いてもメートルとは読まないで欲しい。大名のスケールも米の石高で表わされ、給料も武士は米でもらった、と言う。日本では、米こそが最重要な農作物であって、そのための用水は命より大切であった。昭和39年頃までは農業用水は優先的に取水する必要があったことは歴史として理解出来る。しかし、その後、日本人の食生活の変化、高齢化による離農、そして減反と、、、米作は減ったはずだ。しかるに、社会の変化に対応せずして、農業用水を江戸時代とは言わないまでも昔のままの量を要求して譲らない、時代遅れの機関があることには納得出来ないものがある。この慣行水利権の主張が、都市の渇水の遠因にもなっている、そして、この見直しをすれば、河川に仇なすダムの数も減るかもしれない、、江戸のセンスで川を見て欲しくないものである。

政府は今、行政改革を進めているが、社会の変化に対応するために、これはこれで必要なことである。しかし、そのためには歴史と現実を見直す必要がある。特に「何が国民のためになるか、何が川のためになるか」目的を明確にすべきである。省庁のスリム化再編だけの方法論に終始しミスマッチをすれば禍痕を残すことになる。四万十川はやり直しのきかない川である。

赤穂浪士が吉良邸討入りに成功した要因は、目的が明確であり、優秀な戦士がいたことだが、なにより、大所高所から物事を判断できるリーダーが居たことを忘れてはならない。